ハンナ・アーレントの人間の条件において、世界の物という概念を取り扱っている。それは労働が生存の必要性に応えるものであり、生存のために消費されるものをつくる行為であるのと対照的に、永続性と耐久性をもち、 客観的であるものとしている。 世界の物は仕事によって作られる工作物である。工作物は安定と固さがあり、それゆに人間の住処となる。 世界の物の客観性についてアーレントはこう説明している。
なるほどヘラクレイトスは、人間は二度と同じ流れの中に入ることはできないといったし、人間の方も絶えず変化する。それにもかかわらず、事実をいえば、人間は、同じ椅子、同じテーブルに結びつけられているのであって、それによって、その人間の同一性、すなわち、そのアイデンティティを取り戻すことができるのである。世界の物の「客観性」というのはこの事実にある。
ところで、わたしは日々賃金労働をしているが、わたしは、生存のために必要な物を生産してすらいない。むしろ家事労働のほうが、生存のための消費物生産というのがしっくりくる。とくに皿洗いをしているとき、わたしはいつもアーレントを思っている。わたしにとって賃金労働とは「対応」である。必要とされ、それに応える。わたしが応えた結果としてそれがどのような意味があり、有用性があるのかはわからない。わたしに求めた人は、私の対応に満足し、その人はまた別の人の求めに応じている。このような有用性の無限の連鎖の中で、わたしは対応し続けている。
『スティールボールラン』で、刺客であるリンゴォ・ロードアゲインが主人公のジャイロに、「受け身の対応者はここでは必要ない」と非難するシーンがあるが、わたしもまた対応者だ。しかし仕事でやりたいこともあるだろう? と問われれば、なるほどそれは確かにある。しかしそれは、slay the spireをやるなら毒ビルドでやりたい、といった程度のもので、そもそもわたしはこのゲームをやりたいと思っていない。しかしやらねばならないなら、目的や、好みのビルドを模索する、その程度のものだ。
話がそれた気がするが、いずれにせよ労働は空しく、客観性のあるものはなにもない。そこには不確かな有用性だけがある。ともあれわたしは、仕事をすべきだと思った。それは耐久性のあるものをつくることだ。私の座る椅子をつくることだ。それは変わらず、壊れず、客観的にそこにあり、わたしはいつでも座ることができる。しばらく忘れていることもあるだろうが、いつでももどってきて座ることができる椅子。
その一つとして、このサイトをつくってみた。なにかサービス上でブログを書くのではなく自分で管理するサイト。そもそもインターネットというものにわりと絶望していたのだがそれはまた別の話だな。なにかサービスの上でやるのではなく、自分で作った方が耐久力があるんじゃないかと思っただけだ。そしてこれを機に、いろいろなところに散らばっている今まで書いたブログを集約した。耐久力の話をしていたのに、インターネットとかバーチャルになってしまうのは本末転倒な気もするが。
だからここは耐久性のある世界の物としての個人サイトだ。