先日、休みの日に、銭湯に行ったら、食堂のテレビでザ・ノンフィクションがついていた。
私は子供の頃、この番組が恐ろしかった。日曜日にテレビをつけっぱなしにしていると、この番組が始まってしまい、見ると嫌な気持ちになった。この番組では暗いテーマが取りあげられることが多い、子供の頃の私はそれを、自分の将来としてあり得る可能性として見てしまい、わたしもまたこういった境遇になってしまうかもしれないという恐怖を感じていたことを覚えている。
その日にやっていたのは、30代後半まで、まあいろいろあって大学生をやっていて、そこで卒業したはいいが、なかなか就職先が見つからないという男性の話だった。子供の頃とうってかわって、私はそれを興味深く見ることができた。
番組を見ながら、私はこう思っていた。諸々の事情はあるだろうが、30代後半まで実務経験がない人間を雇うというのは非常に難しいだろうなと思った。私自身、自分の勤めている会社で採用に関わることはあるが、実務経験がなければ書類で落とされてしまう。
つまり、将来の暗い可能性について不安を感じる子供の頃の私はもういなかった。わたしは明らかに、社会に先に出た先達としてあるいは採用側として、あるいは純粋に応援する第三者として彼を見ていた。
自分が選ばなかった未来については認識ができない。 もし受験に失敗していたら、大学に行けなくなっていたら、卒業できていなかったら、就活に失敗したら、仕事をしながら体を壊して働けなくなっていたら、そういった非常に高い確率であり得たかもしれない、選択したかもしれない、しかし結果的に選ばなかった未来については私にはわからない。
しかし、私はザ・ノンフィクションを見ながら、その男性が、私が選んだかもしれない未来を、実際に選んで今歩んでいるように感じていた。そして同時に、私は自分がその道を選ばなかったことについて、安心感を感じていた。つまり、私はこの時、この番組の楽しみ方を理解したのだった。
自分が選ばなかった可能性を見ることで、自分がいま選びとった道に安心を感じる。この番組は、そういった大人たちの後ろ向きで邪悪な安心感のために支持されているのではないだろうか。子供の頃わたしは、なんて暗くて悲惨な番組なのだろうか、なんでこれを日曜日の昼に放送するのだろうかと感じていた。しかしはわたしは、今、だからこそ安心するのだと思う。