ジャンプ+で連載しているゴーストフィクサーズという漫画に、カリンという名の吸血鬼のキャラが出てくる。彼女は主人公とおなじ組織に所属しており、自らが吸血鬼という怪異でありながら、他の怪異と戦うことを生業としてる。その背景として、吸血鬼である彼女が人間の社会で生きてくために、自分が安全であること、有用であることを示し続けなければいけないということが語られる。わたしはこの話を読んで、純粋にいやだなとおもった。安心して生きるために有用性が必要であるということ、そして本人がそう思いこんでいることが純粋に悲しい。私たちは全く思い煩うことなく、いまここにいていいと、そう安心できるべきだ。カリンが、組織の中で有用性を示すと決意したとき、小学生くらいの子供だった。それはとてつもなく悲しいことだ。なにか、大きな欠落を代償にして大きな力を得るというのは物語ではありがちというか鉄板というか、鉄則みたいなもんだ。私だって子供の頃はそういうのに憧れたし、自分の境遇が平凡であると嘆いたことだってある(多分)。しかし、そんなに焦って何ものかにならなくてもいいなじゃないかとか最近は思う。大人みたいだ。まあ、大人になったんだけど。欠落なんてないほうがいい。満たされた状態で、満たされたまま、不安なく、その上で自分の能力をゆっくり伸ばしていけばいいし、失敗しても居場所はなくならない、そういうほうがずっといい。わたしはキリスト教徒ではないから原罪が理解できない。想像するにそれは、「自分が世界にとっての異邦人であること」という感覚なのではないか。ただわたしはここにいるだけなのに、なんとなく居づらい、いまここはわたしにとって安心できる場所ではない、私がいるべき本来の場所がどこかにある気がする、そういう感覚は理解できる。あるいは全てが偶然であることに耐えられないなのかもしれない。自分が偶然生まれてきて偶然死んでいく、あらゆることは偶然であり、必然はなく、意味がない。誰かと仲良くなって、その人のことをよく理解したとおもった次の瞬間、全く知らない顔を垣間見るときのあの不安感、そういったものは私も理解できる。この不快感、違和感を、神や救世主や賃金や勤労や有用性によって解消しようとするというのはもう人間が何千年も続けてきたことだ。つまり何が言いたいかというと、私たちの心の構造としてもう最初っから欠落を抱えており、それを満たそうとしてしまうのかもしれないということだ。どうすりゃいいんだろうね。
欠落より安心を
11月 16, 2024