書記バートルビーを読んだ。バートルビーは法律事務所で筆耕の仕事をしている。法律の書類を書き写す仕事だ。彼の雇い主が、彼に書き写した書類のチェックを頼んだところ、「しない方がいいと思うのです」と断った。それ以降も、バートルビーは筆耕以外の頼み事については「しない方がいいと思うのです」とだけ答え、拒絶する。そういう話だった。

バートルビーの雇い主である弁護士は、彼の「しない方がいいと思うのです」という拒絶に困惑する。弁護士は弁護士は簡単な仕事を頼んだだけであり、それは常識的に考えて、そして雇用関係があるという前提を踏まえ、当たり前にやるべきことだからだ。書記バートルビーは不条理の物語だ。不条理とは当人たちの意思が全く通用せず、そして理由もわからないどん詰まりの状況へと放り込まれる人々の物語である。不条理演劇の代表作である「ゴドーを待ちながら」は二人の浮浪者がただゴドーと言う男を待ちつづけ、そして結局来ないという物語だ。二人の浮浪者には、ゴドーを待つことしかできない。それがなぜ待たなければいけないのか、ゴドーが何をもたらしてくれるかはわからない。あるいは、聖書における不条理であるヨブ記は、ヨブが神様から理不尽な罰を与えられる話だ。バートルビーの拒絶もまた不条理だ。彼はその拒絶の理由を一切話さない。ただ「しない方がいいと思うのです」とだけいい、何もしない。この難解な物語については、資本主義への批判というのが定説となっているらしい。解説にそう書いてあった。「仕事」とは特権的階級を持っている。仕事だからと言えば、その他の用事よりも優先される。仕事をやっていなければ非難されるし、仕事は尊いものであるという認識もある。仕事依存症という意味のワーカーホリックという言葉があるが、アルコール依存症や、ゲーム依存症等の他の依存症と比べて、あまり問題視されていないし、勲章的な響きすらある。仕事がこのような特権的階級を手に入れたのは長年の暴力、政治、搾取、抑圧によるものだ。私たちは条件づけられた動物のように、仕事を、労働を、すべきものであると受け入れさせられている。ということを踏まえたとき、果たしてバートルビーは不条理なのだろうか? 仕事が「しない方がいいと思う」ことであるのは自明ではないか。私たちはなぜ、金のために、裕福になるために、幸福のために、仕事をしなければならないと思い込んでいるのか。雇用関係にあれば、頼まれた仕事をしなければいけないし、それを明確な理由なく拒絶することは不条理であると、なぜそう思い込んでいるのだろうかか。フルタイムの仕事に就く前は、一日8時間も一体何をやるべきことがあるのだろうか?と思っていた。しかし実際に働いてみると、やらなければいけないことでいっぱいだったし、なんなら自発的に、やったほうがいいことをどんどん見つけてしまう。私の心の中にもバートルビーが現れている。彼は青白い死にそうな顔をして突っ立っている。私が、あれもしなきゃ、これもしなきゃと思う時、「しない方がいいと思うのです」と囁く。