オーウェルの1984年は主人公が自室の監視カメラの死角で紙とペンを使って日記を書くことから物語が始まる。日記を書くことは反抗なのだ。しかしフルタイムで働いていると日記を書くこともままならない。8時間の労働を終えたあとは、ツイッターで広告を眺めることしかできない。

「祝日に会社を休みにしなくてはいけない法律はないんだよ」と得意げに言ってきた大馬鹿者がいた。労働者であるにもかかわらず資本主義を内面化してしまった救いようのない馬鹿だった。人格化された資本はおそらくそのように言うだろう。休みなく働けと。しかし現実においては、先人たちが血を流して反抗してくれたおかげで、労働法と祝日を我々は手にしている。感謝しかない。なるべく多くの人に祝日に休んでほしい。祝日もまた資本への反抗である。祝うべきであり、つかの間の労働からの解放に日記を書くべきだ。

仕事。以前も書いたかもしれないが、現在は私の人生のなかで最も仕事が忙しく、なんと毎日1時間くらいの残業をしている。この時点で私の感覚が平均的日本人の労働観から乖離していることがわかるが、私としては本も読めない、日記も書けない生活になっている。しかしこれも慣れてしまえばわるくない。それは資本主義的における正しい労働者だからだ。よく働き、よく消費し、そして日記を書かない。仕事と生活でいっぱいいっぱいで、社会や政治に関心がない。労働者は労働と労働力の再生産のみを行っているのが良い。私は今の生活が、ささやかな幸せで満ちていることを感じる。

日本橋ヨヲコという漫画家がいた。とてつもなく面白い漫画を描き、私の青春をめちゃくちゃにした。いまはなぜかくそつまらない漫画を描くようになってしまった。なぜだろう。日本橋ヨヲコの漫画の台詞で、今でも覚えているものがある。ここで諳んじてみよう。細部は違うが大まかには合っているはずだ。

「見ろよこの青い空、白い雲、そして楽しい学校生活。どれもこれもがおまえの野望をあっさりと爽やかに打ち砕いてくれるだろう。」

正しい労働者生活が私の野望を打ち砕きつつある。そしてそれはそこかしこで起こっている。野望とは何か。野望を思い出すために日記を書くしかない。

仕事。学生のころ、私は自分の気質から、ワーカーホリック体質だと思っていた。しかしいざフルタイムで働いてみると、仕事は驚くほどつまらなかった。仕事がおもしろいという人は、「本当に面白いこと」を知らないまま大人になってしまったんだな、かわいそうだなと思ったし、今でも思っている。ワーカーホリックは哀れで無知な社会不適合者であるにもかかわらず、資本家にとって都合がよいためにその事実を知らされないでいる。ワーカーホリックは二重の意味で無知なのだ。無知を知ることは極めて困難だが、日記を書くことはその一助になるだろう。

他人にとって価値があるものを、自分にとっても価値があるかのように振る舞う、というのがコミュニケーションの本質である。だからわたしは労働や仕事に価値があるかのように振る舞っている。私には社会性がある。そして全員がそのルールに乗っ取って行動した結果、誰一人として本心では価値を感じていないにも関わらず、しかし全員が価値があるかのように振る舞うという状況になっている。そしてみんな余裕がないから、自分の嘘に自分自身もだまされて、何の価値もないものに価値があると思い込んでいる。冷静になってほしい。日記を書いてほしい。