久しぶりに自分のスマホのカメラロールをみると、なんかつまらん写真ばっかり撮ってるなとおもった。私は写真について技術も知識もなく、本気でやっているわけでもなく、ただなんとなく写真を撮るのだが、それでも以前は私が良いとおもう写真を撮っていた。街を歩き、ふとあらわれた光のかけらとか、オブジェクトの偶然のテンポとかを撮っていた。
ここ数年に私が撮った写真をみると、そこには人生と幸福があるが、「良さ」はなかった。良さとは何だろう。私の写真を他人が見てもなにもおもしろくないが、私は私の感じる良さに従って写真を撮っていた。
『大東京トイボックス』という漫画で、ゲームディレクターである主人公が、自分でつくったゲームを遊んで「やはり俺のゲームは! 俺のツボをつく!」と言うシーンがある。私の作るものは私のツボを突く。しかし同時に、これはとてつもなくむなしい。わたしは才能もなければ根気も覚悟もないので、誰かを楽しませるようなものはつくれない。ただ私だけが私のを楽しむ。これは一般的に自己満足だとか、オナニーだとか言われるもので、むなしさと後ろめたさがある。
しかし私は私の、幸福で退屈なカメラロールをみて、自己満足すらないというのはこんなにも空っぽなのかと感じた。私は十代のころから厭世と自己満足のプロなので、それらが存在しないことの圧倒的虚無を知らなかったのだ。初めて自分でカメラを買ったとき、買ったはいいが一体何を撮ればいいのだと困り、近所の大きな公園にいって花などを撮ったが、何も面白くなかったのを覚えている。それからしばらくカメラを持ち歩いたり、持ち歩かなかったりしながら、数年経ち、わたしはふと現れる「良さ」を撮影する楽しさを知った。出張にいくと、仕事と付き合いが終わった後に一人でカメラをもって散歩した。どんなところに行っても、カメラをもって散歩すればわたしは幸福なのだという自信があった。