生活はやはり忌むべきものなのかもしれないと思った。今年は生活について見直してみようと思って、丁寧な生活系の本を読みあさったり整理術とか掃除術とかを実践してみたり、持ち物の結捨てたりした。結果として家事全般に対する抵抗感は下がり、丁寧な生活とは言わないまでも、去年よりはすこしマシな部屋で生活している。

丁寧な生活系の本に出てくるひとは、生活が趣味ですみたいな感じだ。そう明言しているひともいる。丁寧に穏やかに自分の好きなものに囲まれて暮らすのが良い、みたいな。それはそれで幸せそうだし、おしゃれで綺麗な部屋はうらやましいとおもう。丁寧な生活系の本を読むひとのロールモデルとして理想的なのだろう。しかし生活が趣味というのは労働が趣味というのと結局同じなのではないか。どちらも必要性から生じていることだから。

生活、たとえば家事をしないで生きることは大多数の人にとっては不可能だし、労働も同様だ。避けることができない必要性ならばそれが楽しいということは救いなのだろうか。生活と労働を趣味や好きなことにすることによって、私たちの人生から必要性の領域がなくなり、救われるのだろうか。

生活も労働も、繰り返されてどこにもたどり着かないという点で虚無だ。

必要だからやっていること、避けられないことを愛さなければいけないのだろうか。

必要だからやっていることはやはり忌むべきなのではないかと思う。必要でないけどやっていることに人間の尊厳がある気がする。生活や労働を侮蔑したところで、それを押し付けられる存在もいないので、結局自分がやるしかないのだけど、避けられないから愛さなければならない、というのではなく、心底下らないとおもいながら丁寧にやっていくというのも良いかもしれない。

もちろんあわよくば、必要なことを一切やらずに、やりたいことだけやるような人生が手に入ったらいい。